闇夜に啼(く、あの酉(の様に。
V
その晩、珍しく夜更け過ぎに帰ってきた薫子は随分飲んだらしく、やけに酔っていた。
いつもどんなに飲んでも素面な薫子らしくなく、泥酔していた。
午後1時、薫子の帰宅を待ち起きていた鶫は、玄関のドアが開かれる音で彼女の帰宅を察し、勉強机に広げられた化学のノートから顔を上げた。
声をかけようと一旦自分の部屋の扉を開けたものの、その瞬間微かにしかし確かに聞こえた嗚咽まじりの泣き声に鶫は硬直し立ち止まる。否、立ち止まることより他、何もできなかった。
鶫の前では何時だって気丈な薫子のその狼狽振りに、しばし声を掛けるべきか否かを思案した。
薫子の右手には普段あまり吸わない煙草が握られている。そのマルボロの煙が細くゆらりと天井へと上ってゆき、やがて静かに霧散し消え失せる。細く細く頼りない一筋の煙はまるで生命の灯火のようだと、鶫はふと思った。
結局、話しかけることも、傍に近寄ることすらできないまま、眠れぬ夜を過ごした。
翌朝、鶫は彼女の涙の理由を知る。
鶫の父――つまり薫子にとっては旦那――が急逝したとのことだ。
原因は仕事によるストレス……いわゆる過労死だ。
朝一番、父が勤める学校の同僚からの一報にて、鶫はそれらのことを初めて知った。
父が死んだという知らせに鶫は驚くほどあっさりと「ああ、そうか」と納得する。冷めているというわけではない。しかし妙にすっきりと事態を掌握してしまっている自分に、半ば寒気と一種の悍ましささえ感じた。
何故こんなにも身内の死に冷淡になれるのであろうか。それは、父とはかなり長い間、言葉すら交わしていないからであろうか。或いは、薫子へに対する父の態度への報復のつもりであるのだろうか。
否、そのどちらでもなかった。
鶫は既に昨晩の薫子の取り乱し様から、全てを悟っていたのだ。彼女がそこまで取り乱すのは、父が原因に違いない、と。
薫子は鶫の手前いつもの様に振舞ったが、それが逆に彼女の深い悲しみを鶫に痛いほどに実感させた。その泣き腫らした兎の眼で薫子に微笑まれるそのたびに、心臓が獣に食いちぎられる耐え難い痛みに襲われた。微かに震えるそのほっそりとした背中を見るたびに、いっそこの場で死んでしまった方がどんなに楽だろうと本気で思案するほどに息苦しかった。
しかし、死への甘美な誘いの中、どこかはっきりと信じていた。
たとえ今日、自分が不慮の事故で死んだとしても、薫子は今よりもずっと気丈にしていただろう。場合によっては、涙すら流してはくれないかもしれない。
薫子が泣くのは如何なる理由においても、父のためだけである。決して鶫のためではない。それは父が没した今でも――時を遙かに経た遠い未来に於いても、揺るがすことはできない事実なのだ。
そして、そう確信してしまえる自分が、何よりも恨めしかった。
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